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事例紹介

戦国武将のパワハラ  本多忠純 パワハラ武将の思わぬ最期

2015年3月2日

2015年3月1日 産経新聞の記事です。

http://www.sankei.com/region/news/150301/rgn1503010004-n1.html

【引用はじめ】

徳川家康の側近であり、宇都宮城主としても名高い本多正純には、2人の弟がいた。政重(まさしげ)と忠純である。

政重の方は多少知名度がある。関ケ原の戦いでは西軍に属し、父・正信や兄が仕える徳川家に敵対した。いさかい事で徳川家を出奔し、大谷吉継、宇喜多秀家、福島正則、前田利長と、豊臣秀吉の子飼いら豊臣系武将の家を渡り歩いた。さらに関ケ原の戦い後、敵対関係は解消したとはいえ、徳川家が最も警戒する上杉景勝の重臣・直江兼続の養子に。最後は前田家に戻り、家老となった。徳川譜代の次男坊としてはいささか問題児だったのか。それとも家康の参謀・正信がスパイとして諸大名の事情を探らせていたのか。名の似た叔父(正信の弟)正重(まさしげ)も滝川一益、前田利家、蒲生氏郷と有力武将に仕官、転職を重ねた。

一方、忠純は無名だが、正純が小山藩主だった頃、隣接する榎本藩主となった。旧大平町発行の「大平町誌」(昭和57年)は「豪勇をもって聞こえた」と評している。ただ、政重とは別の意味で問題児だった。江戸からの帰途、栗橋(埼玉県久喜市)で突然家臣に刺殺された。大平町誌は「忠純は非常に短気で、家来に少しの誤りがあってもすぐ手討ちにした」と説明。パワーハラスメントが招いた悲劇だったのか。大平町誌は「忠純の最期については異説もある」と結んでいる。

 

栃木市大平町榎本やその周辺には宅地や田畑の中に榎本城の土塁、堀の遺構が残る場所があり、城跡碑と解説板もある。

本多忠純(ほんだ・ただずみ) 1586~1631年。徳川家康の参謀、本多正信の三男。榎本藩1万石、後に加増され、2万8千石の領主。長男の忠次は早世。政重の次男・政遂(まさもろ)を養子に迎え、藩主を継がせたが、政遂の子は夭折(ようせつ)し、断絶した。

 

【引用終わり】